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豆腐屋の生真面目さで、
とことん嘘のない納豆をつくる。

HIDEHARU MIYATAKE

専務取締役 宮竹 秀治

職人のDNA

豆腐屋の次男に生まれ、小学生の頃から当たり前のように家を手伝ってきました。ですが、将来は家業に入ろうという明確な意思があったわけではありません。その気持ちが変化したのは、大学進学で家を出たときのこと。私は当時、無理を言って大阪の私大に進学させてもらい、仕送りをもらいながら生活をしていました。アメ村に近い大学に通いながら、ときには夜通し遊ぶこともありました。しかし飲み歩いて明け方4時に帰宅したある日、ふと「親父はもう働いている時間だな」と思ったのです。夜明けの空気の中で一人思い出した親父の背中。自分はこんなことをしていていいのだろうかと思わずにいられませんでした。結局、3年までで単位を取りきり、4年生の一年間は家に戻って豆腐屋を手伝いました。卒業後に正式に家業に入り、親父に厳しく怒られながら豆腐づくりを学びました。「豆腐に嘘ついたら、必ず豆腐に出るぞ。グス(ズル)するな!」親父に言われ続けた言葉です。

最初の試作はコタツから

家業に入って約10年経った頃のこと。ふと、自分の好物である納豆をつくってみようと考えました。当初は「豆腐屋として経営が成り立っているのだから、余計なことはしなくてもいい」という意見もありました。でも、やると決めたからには絶対に成功させようと誓い、独学で研究を開始。納豆づくりは第一に、良い納豆菌の株を見つけるところから始まります。菌の元となる藁をとにかくいろいろと試し(農家の稲刈りを手伝いに行き、報酬として藁をもらったり、農協に頼んで全国からありとあらゆる藁を取り寄せたり)、様々な大学の発酵学の教授を調べて突然電話をしてはアポをとって教えを請いにいき、納豆に関する本も300冊は読んだでしょうか。発酵のために40度前後の温度を維持する機械があるのですが、それを買うお金もなかったため、最初の頃はなんと家のコタツで納豆をつくっていました(笑)。そんなことを豆腐づくりの傍らで毎日繰り返し、3年ほどの月日が経っていました。

個性で勝負する商品を

なんとなく納豆づくりのコツがわかってきた頃、転機が訪れました。国の「ものづくり補助金」の存在と、その中の分野に「発酵」が含まれていることを知ったのです。膨大な書類を自力で準備し、その過程でまた様々な人の協力を仰ぎ申請。なんとか狭き門を突破して採択されました。あのときは家族みんなが喜んでくれました。そして国からおりた1000万の補助金で機械を導入し、本格的な納豆の生産を開始。石川県産の大豆と独特の昆布だしを使ったせいろ蒸篭納豆や、黒豆納豆、大麦納豆など、他の会社にはない個性と味で勝負できる商品を開発し、5年ほどかけて軌道に乗せてきました。不思議なことに、「売りたい」と思っているときより、無心で納豆に向き合い、納豆を通して人を喜ばせようと思い始めてからのほうが納豆は売れています。そして間違いなく、今のほうがいい納豆ができるのです。「グスするな、豆腐に出るぞ」という親父の言葉は、納豆にも当てはまっている気がします。